"My Pure Lady" Junko Sakurada

桜田淳子資料館



初代担当ディレクター
谷田郷士氏
(「天使も夢見る」〜「もう戻れない」)





──谷田さんが淳子さんに初めて会ったの はどんなシチュエ−ションでしたか?

「渋谷にあった中村泰士さんの御自宅で した。
 秋田から上京したてで、セーラー服 を着ていて…。
 彼女は中学2年生だったん じゃなかったかな?」

──実際お会いする前の彼女にはどんな印 象を持っていましたか?

「実は、僕はそれ以前の『スター誕生!』 あたりのことをあまり知らないんですよ。
  僕はもともとニューミュージック系のデイ レクターをやっていたんですが、急にアイ ドル・ポップスの部署に異動になって桜田 淳子を担当するようになったものですか ら、僕が彼女に会った時にはすでにある程 便のお膳立てが出来ていたという状況で」

──新人・桜田淳子を売り出すにあたって、 どんな狙いやコンセプトがあったんでしょうか?

「当時は天地真理さん達の時代でしたの で、とにかく天地真理さんを越えようとい うのが目標でした。
 “そよ風の天使”とい うキャッチ・フレーズを付け、彼女のトレ ード・マークだった帽子も“エンジェル・ ハット”と名付けて、レコード制作につい ても、“天使”という言葉をキャッチ・コ ピーにした作品づくりをしていこうという ことになったんです。
 その路線にそって作 られたのが、「天使も夢見る」「天使の初恋」 「わたしの青い鳥」「花物語」といったシン グル曲ですね」

──まさにメルヘンチックな作品群ですね。
 

「そうです。
 でも、最初の2枚のシング ルは思ったより売れなかったんですよ (笑)。
 そうこうするうちに百恵ちゃんが 「青い果実」という、エンジェルとは対照 的なセクシー路線の歌でベスト10に入っち ゃった。
 当時は、淳子が“太陽”なら百恵ち ゃんって“陰”のイメージだったし、実の ところ僕は百恵ちゃんは淳子には勝てない だろうと思っていたんです。
 それがいきな りヒット出されちゃったからすごくショッ クでしたね(笑)」

──でも、レコード大賞の最優秀新人賞は 淳子さんが獲りましたよね。
 

「3曲目の「わたしの青い鳥」が割と目 立つ曲でしたし、実際息長く売れましたか らね。
 みなさん、淳子のモノマネっていう とあの曲でしたし(笑)。
 「わたしの青い鳥」 は、淳子のプロジェクトの中では珍しく曲 先だったんです。
 中村泰士さんがメロデイ を作って、“クッククック〜”って部分だ け先に決めて阿久さんに詞をつけてもらっ た。
 でも、あれもベスト10には入ってない んですよ。
 それで、僕は頭を抱えちゃって ね。
 これでもダメか、と。
 年末に出た4枚 日のシングル「花物語」がやっとベスト10 に入ったんです」

──あれは画期的な構成の曲でしたよね。
 

「歌と台詞が半々でね。
 「花物語」はアル バム用に作った曲なんですが、評判がよく てシングルになったんです。
 彼女のおしゃ べりってすごく説得力があるんですね。
 言 葉がはっきりわかるし。
 だから、アルバム の中にナレーションの入るやつを人れよう ってことで作ったのが「花物語」なんです」

──後の淳子さんの女優としての活躍は、 案外これが原点かもしれませんね。
 

「かもしれないですね。
 こういうのを聴 いて映画のプロデューサーなんかが淳子に 注目したってことはあるんじゃないです か? ただ、これがベスト10に入ったこと で何とか格好はついたものの、僕の中では 違う路線にチャレンジしたいという思いが あって、次の「黄色いリボン」で森田公一 さんにお願いしたんです。
 メルヘン路線を 少しずつ変えていく意味で…。
 森田さんの サウンドって、メロディを含めて色気があ るんですよね。
 この「黄色いリボン」で次 のラインが見つかった気がしました」

──それが「花占い」を経て「はじめての 出来事」の大ヒットに繋がっていくわけで すね。
 

「そうです。
 この時「はじめての出来事」 が出来るまでに、実は阿久さんに詞をいく つも書いていただいたんです。
 なんとか等 身大の淳子を書いてもらいたかった。
 そう して、最終的にこの詞があがってきたんで す。
 百恵ちゃんの「ひと夏の経験」までは いかないけれど、“くちづけのそのあとで 〜”なんていうちょっと大人っぼい言葉が 初めて入って…。
 この曲はチャートの1位 になったんですよ」

──ある意味、衝撃的な歌詞ですよね。
 

「たくさんある阿久さんの詞の中でも、 「はじめての出来事」は 一番色気がある歌 詞だったんじゃないかな。
 淳子の歌も良か ったし。
 そんな意味でも、大ヒットに繋が ったんだと思っています」

──アレンジもよかったですね。
 

「この曲で初めてシンセサイザーを使った んです。
 イントロのメロディがそれなんで すが、ポルタメントをつけて面白い効果を 出したんですよ。
 竜崎孝路さんがシンセを 仕入れて初めて使うからやってみようかっ てことで。
 」

──この曲に限らず、当時、アレンジ面で 気を遣っていたことはありますか?

「声を伸ばすところがあると、何か面白 い楽器でオブリガートを人れて、ファンが 「淳子!」とかかけ声を入れられるように したりってことは考えてましたね。
 だから、 当時流行っていたオリビア・ニュートン・ ジョンとかリンダ・ロンシュタットなんか のサウンドを研究して、楽器使いやアレン ジのヒントにしたり・・・。
 そういうところに 苦労した憶えがあります」

──レコーディング自体で苦労したことは ありますか?

「この頃って年にシングル4枚で8曲、 さらにオリジナル・アルバムを2枚作るよ うなローテーションですから大変ですよ。
  コンサートをやったりテレビに出たりし て、レコーディングに来るのが夜9時とか 10時──いい加減疲れてるからなかなかい い声が出ないんです。
 でも、納期は決まっ ているから、また別の日に無理することに なる。
 特にコンサートで全国を廻ってくる と声が変わっちゃってしばらく使えない。
  だから、こっちもいい声を録ろうとレコー ディングの日は朝から風呂に入って身を清 めて(笑)、ベストの状態で行くんです。
  淳子の一番いいところを録り逃さないよう にね。
 ものすごく真剣な戦いでしたよ」

──「はじめての出来事」が1位になって、 いよいよ淳子さんの黄金期が始まりますね。
 

「ええ。
 トップを獲ったってことで僕も 自信がつきました。
 百恵に勝てるぞ!って いう(笑)」

──やはり百恵さんは相当意識していたん ですね。
 

「それはやはりありますよ。
 あちらが何 位を獲ったら今度はこっちが1位を獲って 。
 抜いたら抜き返して──みたいなこと は当然意識していました。
 ある意味それが 支えになっていたんでしょうね、きっと。
  あの頃、百恵さんの曲は“聴きうた”とし ていいものが多いけど、淳子の場合は 歌 いうた”というか、みんなでマネしたり歌 ったりっていう楽しみ方をされたものが多 かった気がします。
 でも、百恵さんの歌っ てすごいものがありますよね、今聴くと。
  やはりたいしたもんだなあと思いますよ」

──そして、その次のシングルが筒美京平 さん作編曲の「ひとり歩き」です。
 これも また名曲ですよね。
 

「そう。
 この曲は作品としてはそれほど大 きなヒットではないんだけれど、アレンジが 素晴らしかった。
 筒美さんお得意のサウン ド・パターンで、ちょっとディスコっぽいと いうか。
 僕はこの頃シェリーも担当していて、 筒美さんと仕事してましたから「淳子にも1 曲お願いします」と頼み込んだんです」

──この後、「白い風よ」というシングル が出ていますが、これは番外編的な−枚で すよね?

「そうですね。
 それは大竹しのぶさんが 出ていたNHKの朝ドラのテーマソングを 歌ってほしいということで作ったもので す。
 この頃はそういう企画の話がいっぱい 来てたんですよ。
 1位を獲って人気のピー クでしたからね」

──そして、決定打といえるのが次の「十 七の夏」です。
 これで夏の淳子の路線が決 まりましたよね。
 

「そうですね。
 この年(昭和50年)の年 間売り上げで女性歌手のトップになったん じゃないかな? わたしもオりコンで表彰 された憶えがあります。
 このへんから「夏 にご用心」くらいまでが第1次の頂点とい えるんじゃないですか?」

──翌年の「夏にご用心」も淳子さんのヒ ット曲の中では印象的な1曲ですね。
 

「ビートが効いていて振り付けが印象的 で…。
 この時は淳子自身もセクシーになっ てきたし、脚を上げるだけで男性ファンが 「オオーッ!」と(笑)。
 このへんは本人が いかにセクシーに、かつ清潔感保って歌え るかって世界ですよね」

──その間に出たシングルすべてがベスト 5入り、そのほとんどが阿久−森田−竜崎 トリオによる作品ですね。
 明るくて健康的 な淳子さんの魅力が最大限に引き出された 曲ばかりですが、このへんの曲作りは計画 的にされていたんですか?

「ええ。
 かなり計画的にやってました。
  阿久さんとの打ち合わせも綿密にしていま したよ。
 コンセプトはこうで、こういう言 葉で、っていう風に」

──その後、「ねえ!気がついてよ」で 大野克夫さんを起用されていますが。
 

「これはね、当時、僕が大竹しのぶさん を担当していて、彼女のデビュー曲に「み かん」という曲を作ったんですが、その作 曲が大野克夫さんだったんです。
 彼がちょ うど阿久さんと組んだジュリーなんかです ごくノッていた時期だし、ああいうニュー ミュージックっぼいポップスがしのぶちゃ んにも合うと思ってね。
 そんな流れから、 淳子にも阿久−大野コンビで1曲、という ことでできたのがこの曲です」

──このシングル以来しばらくの間、1作 ごとに作曲家が替わっていますが。
 

「ちょうど「ねえ!気がついてよ」の頃 から少しですけどセールスに翳りが出てき たんですし 作品的にも飽きられてきていた んでしょうね。
 試行錯誤していた時期なん だと思います」

──それが実を結んだのが、中島みゆきさ んの「しあわせ芝居」ですか?

「そういうことでしょうね。
 そして、ちょ うどこの頃、僕はニューミュージックのほ うの課長になりまして、淳子に直接関わっ ていたのはここまでということになります」

──デビューから5年間淳子さんを担当し てきた谷田さんからみて、淳子さんってど んな方でしたか?

「とにかく、スタッフをその気にさせる魅 力がありましたよね。
 この子のためなら命 を投げ出してもかまわないって思わせるよ うな可愛げがあった。
 わたしが一番感動し たのは、「わたしの青い鳥」でレコ大の最優 秀新人賞を獲った後、赤坂の中華レストラ ンでお祝いをするのにみんなで車で移動し た時のことなんですが、僕の後ろの席に乗 った淳子がレストランに着くまでずーっと ぶつぶつつぶやいているんですよ(笑)。
 何 を言ってるのかと思ったら「この賞は一人 で獲ったものじゃない。
 みなさんのおか げで獲ったんだ。
 それを忘れないように …」みたいなことを言ってるんです。
 それ と…、僕が、平成11年にビクターを退職した 時に、もう何年も会っていなかったという のに、淳子から直々にお手紙をいただいた んです。
 予想もしていなかったことで、と ても感激しました。
 彼女は誰に対してもそ ういう気配りができる子なんですよ。
 その 手紙は僕の大事な宝物になっています」

──人柄が偲ばれますね。
 では、アーティ ストとしての桜田淳子に対して思うことは?

「そうですね、まず彼女がいなければ、今 僕はこうしていないだろうし…。
 それより もやっぱり一つの時代の象徴っていう意味 で大きな存在ですよね。
 いい作品があって、 その作品で時代を思い出すって事はあるけ れど、例えばだれだれが活躍した時代はい つかって言われてもなかなか背景が思い浮 かぶところまではいかないでしょう。
 そう いう意味では、淳子や百恵ちゃんっていう のは大きなアーティストでしたよねこ これ からもずっと振り返られると思うし、僕も 彼女と関わって 一つの時代が作れたってこ とは幸せだったと思っています。
 だから、 彼女には今後もっと仕事をしてほしいんで すよ。
 彼女ならまだまだ出来るはずなんで す。
 それだけの大きさを持っているアーテ ィストなんですから」

※ インターネット用に見やすいように一部編集していることをご了承ください。(管理人)

 戻る 
inserted by FC2 system