第1回
やさしさが足りなくて
やさしさが足りない
思いやりが足りない
心の奥の方で、いつもそんなことが少し気になっている
強気なことをいって、相手を傷つけてはいやしないか
一方的に走ってはいないか
ちゃんと相手の立場を思いやって、伝えられただろうか
話しみたものの、すぐその後で気になる
こんなせわしない世の中になってしまっているから、心までがせわしなくなる
心がせわしなくなると、ついついやさしさや、鷲いやりを怠る
だから、やさしさが足りない
やさしさが足りない
と、いつも心の中に言って聞かせたい
こんにちは。
はじめまして。
ありったけのやさしさでもって、人とふれ合っていたいと思いつつも、世の中のご時勢に流されてか、元来、生まれ持っている自分の自己中心的な心がそうさせるのか、やさしさを時々忘れてしまう。
子供の頃、母親や近所のおばさんが、私をほめてくれる時には大抵「やさしい、いい子ねぇ」といってくれた。
それが私には最高のほめ言葉にきこえた。
「やさしい……」に、いやがおうでも、ピクッと反応して、とたんに、ニコニコと本当にいい子の顔になることがしばしばあった。
女の子はやっぱり、やさしいのが一番だ。
そういえば、私の友だちにY子という人がいて、彼女は私にこんな話をしてくれた。
子供の頃、Y子ちゃんはとてもよくできた子だったので、近所を、母親と歩いていると決まって、「お宅の子は頭がいいわねぇ」「しっかりしてるわねぇ」「よくできた子ねぇ」といわれたんだそうだ。
本当にY子ちゃんはよくできた子で、学年でもトップの方にいた。
「いい子、できた子」といわれる度に、Y子ちゃんはそれ以上にがんばってトップを目指した。
そのうち、男の子にさえも対抗意識を燃やして、ついにトップの座に!
その頃のY子ちゃんときたら、髪の毛もろくにとかさず、女の子であることさえもどこかに忘れて、ただ黙々と勉強することで精一杯だった。
何故なら、相も変らず大人たちは、「よくできた子ねぇ」の連発だったし、その、よくできた子を一所懸命キープしようとしていたんだろうと思う。
中学3年を迎えたある日のこと、Y子ちゃんは、恋をしました。
そのときはじめて、鏡を見ること∞髪をとかすこと≠経験して、自分が女の子であることを嬉しく思ったんです。
そして自分が日に日にやさしくなっていくのを感じました。
と同時に、周りが自分にいう「よくできた子ねえ」が、とても気になりはじめました。なんだか、煩わしくさえなりました。
しばらくして、Y子ちゃんはあることに気づきました。
「なんだ、今までの私に対しての評価は、心のやさしさや温かさといった内面的なものではなくて、ただ単に、勉強ができる≠ニいうだけの外面的な評価だったんだ」
そのことが、彼女にとっては相当にショックなことでした。
人を押しのけてでもトップに出たいという目的で、必死で勉強してきた自分が恥ずかしく思えてなりませんでした。
「女の子として生まれてきて、やさしさのかけらもないだなんて………」
「やっぱり女の子は、性格的なことの評価をされる方がずっと幸せなことなんだ」
彼女はその時、何が大切なことかをはっきりと自覚しました。
Y子ちゃんは、今でも相変らず頭はいいけれど、何よりも、やさしいいい子です。
「やさしい子ねぇ、いい子ねぇ」といわれて、そこではじめて女の子は、やさしいいい子に育っていけるのだと思う。
子供の時の潜在意識が大きくなるにつれて、良くも悪くも出る。
だから、やがてお母さんへとなる女性は」貢任重大だ。
いつの日か母親になる日を夢見て、やさしさが足りない≠自分に連呼していきたい。
そんな理由から、新しく持たせていただいたページのタイトルを、やさしさが足りなくて≠ノしました。
これからもよろしく。
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