第4回
異国の地に見たふるさと
そしてやさしさ≠フ原点
赤ン坊の時、入れられていたいずめ(たらいの中にワラをしきつめたもの)=B
母さんが、子供たちの洋服を縫うために使っていた足踏みミシン。
お年玉をためて、やっとの思いで四月ったタミーちゃん人形。
わが家の前にしっかりと陣取って立っていた、でっぶりと太った円柱型の赤いポスト。
5円で買えたアイスキャンデー。
1円で二つももらえるあめ玉。
春の加島祭り。
遊山、なべっこ遠足。
砂まみれになって遊んだ裏山。
私の手にかみついて、私をよく泣かせた隣のとみやすちゃん。
駄菓子屋の黒兵エ堂のお母さん。
遊びに夢中になって、グラウンドの前に忘れてきたランドセルを、わざわぎ家まで届けてくれたふとん屋のお父さん。
学校から帰ってくると必ずといっていいほど、鏡の前で歌っていた私に、「上手だね、淳子ちゃん」と、隣から大きな声でお世辞を言ってくれた肉屋のお母さん。
おはじき、かんけり、だるまさんがころんだ…。
新屋幼稚園、日新小学校、西中。西中時代の演劇部の仲間。
幼稚園から中学校に至るまで、その時々で担任を務めてくれたすべての大好きな先生。
友だち、近所の人たち。
そして親類。
そして家族……。
最近の私ときたら、あの頃は楽しかった∞いい時代だった≠ニ、もう、おばあちゃんでもあるま止でくいし、自分を育んでくれたふるさと=i子供時代)が懐かしく思えてならない。
正直にいえば、14歳で歌手デビューをするために東京にやってきた頃は、それほどふるさと≠背負っているといったものはなかった。
むしろ、遠くに追いやって、都会で自分の好きな道≠歩めることの喜びの方が強かったし、毎晩、枕をぬらすといったホームシックにさえかかったことのない、ずいぶん薄情な私であった。
その薄情な私も、ついにふるさと≠しっかりと見つめ、思いを寄せ、子供時代を何度も何度も回想するようになってきた。
ふるさと≠ェ急に懐かしく思える時が、人にはあるのだと思う。
きっかけはさまぎまだ。
私はここのところ、外国へ行く機会が多いのだが、日本を離れて旅をすればするほど、日本を恋しく思う気持ちが強くなってきた。
旅先で、失われた日本の情景に出合ったりすると、それはなおさらだ。
「ああ、確か、子供の頃はこんなことをして遊んでいた」「父はあんな風だった」「母はこんなことをしてくれた」「こんな景色の中で育ってきた」etc…。
見知らぬ土地で、私はいきなり少女時代にかえる。
ついこの間もそうだった。
映画のロケで中国に行っていた時のことだ。
つばめが空を舞っていた。
それも無数に……。
こんなにたくさんのつばめを、そういえば久しぶりに見たのだった。
その飛ぶさまは、実にすがすがしいものがあって、小さな頃は、子供心に、つばめから潔さ≠感じとって、それはそれは大好きな鳥だった。
その鳥が、無数に空を飛んでいるのを目にした時に、しばらく忘れかけていたふるさと≠見たような気がしたのだった。
と同時に、ふるさとを離れてからの私の日常は、なんて忙しく、せわしない毎日だったのだろう!と、つくづくそう思った。
それは、自然の中に立たされて、はじめて自分の心の疲れ≠感じとったからかもしれない。
私は自分で思っている以上に、心が疲れていたのだった。
思えば、こんな窮屈な日本で、しかも来る日も来る日も、せわしなく仕事をしているのだから、疲れていないわけがない。
常に緊張感の中で仕事に取り組んできた私が、異国の懐かしい情景の中に放り出されて、緊張が解かれた瞬間に、たちまちにして何もしたくない!¥ユ動にかられてしまった。
空を飛ぶつばめの光景も、のどかな田園風景も、川緑におおわれた山々も、どこまでも果てしなく続く砂漠も、私を心地良くさせてくれるものだった。
この、のどかさといい、優雅さといい、やさしさは、実は今、私が一番欲しているものだということを知った。
心地良さを覚えたら、今度は心が無防備になって、自分はなんてがむしゃらにやってきたのかと、今までの疲れ≠ェ一気に出てしまった。
気がつくと、「疲れちゃった−−−−−−」と、心からそう叫んでいた。
私は本当に、今のいままで、自分がこんなにも心が疲れているとは気づかないでいた。
好きでやっている自分の道ならば、疲れ≠ネどないはずなのに、ここまで私の心を疲れさせたのは、精神的なことだったのだと、今にして思う。
仕事を通して、あらゆる人たちに出会いながら、学ぶことの方が多かったけれど、時には憤りを感じ、やりきれなさを感じたりもして、自らをくたびれさせてしまったようだ。
潔癖≠フ性分は、こうついう時に、悪い方に出るから困ったものだ。
私は今、心から自由でいたいと思う。
窮屈になって、がんじがらめになってしまっている心を解き放して、楽にさせてあげたいとそう思う。
子供の頃、自然の中で、自由にのびのびと遊んだように……。
私を愛し、育んでくれた両親の前で、心から素直でいられたように……。
忘れかけていたふるさと≠突然に懐かしみだしたのは、きっと、ふるさとが、私を一番最初に愛してくれた所(原点)≠セということを、私の心がずっと忘れずにいたからなのだろう。
その原点から離れて(自らふりきって)、しばらくの間、長い旅をしてきた、というのが今の実感といったところか……。
やさしくあること、
素直でいること、
おおらかであること、
それは、自分を愛してくれた原点があってこそ(忘れずにいること、そしてそれを感謝できること)自然に発揮できることなのだと思える。
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