"My Pure Lady" Junko Sakurada
桜田淳子資料館

管理人室

 

管理人の迷酊放談

〜よい酔い余韻の良い好い宵〜

No.0006 『片思い』を読んで

 

 先日、東野圭吾さんの『片思い』という本に出会い、大いに得るところがありましたので、皆さんにおすそ分けをしたいと思います。
  
 ミステリーですので、筋書きを詳しく紹介するわけにはいきませんが、氏の代表作の一つで、小林薫さん、広末涼子さん、岸本加世子さんらで映画化された『秘密』が、娘の肉体に(死んだ)妻の心が入り込んだため、その外見と中身の違いにとまどう人間が描かれた物語だったとすれば、『片思い』は、その「娘と妻」「女と男」に置き換えた物語と言えるかも知れません。


 作中の登場人物が、男と女の関係について、「メビウスの帯」に例えて語っています。
 「メビウスの帯」とは、帯の両端を持ち、一方をひねった後、端同士を合わせたものです。
 普通の紙は表と裏に分かれ、表はどこまで行っても表で、裏と出会うことはありません。
 しかし、「メビウスの帯」は、表と思って進んでいけば、いつの間にか裏になり、表と裏がつながっている不思議な帯なのです。
 「すべての人間が、このメビウスの帯の上にいる」とその人物は言います。

 こうして、「男と女が全く別なもの」という見方を、作者は否定しています。


 「完全な男はいないし、完全な女もいない、完全な人間もいない」と、私は昔から思っていました。

 私は、子供の頃から、身体が弱かったために、健康や病気、障害ということに対して考える機会がとても多い人間でした。
 はたして何をもって健康というのだろうか、普通とはどういう状態なのか、健康と病気と障害の境目はどこにあるのかなどについて考えた結果、そうしたものに万人が納得する正しい、絶対的な境目などなく、一部の人間が勝手につけた一応の目安しかないと思うに至りました。

 「人間はみんな、健康な(?)、普通の(?)人といえども、少しずつ異常な部分や、病的な部分、障害の部分を持っている」のであり、「少しずつ死んでいる」のであり、その意味で、「人間はみんな障害者であり、病人である」と思っていました。
 ただ、それを自分で自覚しているかどうかの違いしかないと思っていました。
 
 だからこそ、掲示板において、「人間はみんな不完全だということを自覚し、互いに許し合わなければならない」と言い続けてきまたわけです。

 そして、資料館におけるもう一つのテーマとして、「民主主義の原則は多数決ですが、真理は常に少数派から始まったことを忘れず、少数派の意見を黙殺してはいけないという暗黙のルールがあり、その意見には、私は反対だが、その意見を言う権利は私は死んでも守るという精神を忘れてはいけません」ということを言い続けてきました。

 「マスコミは権力をチェックすることが本来の役目であり、一方に与せず、公平な取材と報道をして、我々が正しい判断が出来るよう情報を提供する義務がある」というマスコミ批判も入れて、この3つのテーマを展開しながら、淳子さんを擁護し、応援するホームページを6年間続けて来ました。

 この3つを世間にアピールしていくことが、淳子さんの復帰出来る環境を作るためには必要なことと位置づけでやって来た次第です。
  

 その私が、多数派の立場に立って、少数派の皆さんに失礼な言葉を放ち謝罪することになろうとは、本当に情けない話です。
 知らなかったこととはいえ、掲示板において、「おかま」「おなべ」「ホモ」「レズ」といった言葉に傷つく人がいることも考えもせず、不注意にもそうした言葉を使ってしまったことをお詫び申し上げます。
 本当に申し訳ありませんでした。

 そのことを教えてくれたのが、『片思い』でした。
 作中の登場人物の言葉から、いくつも大事なことを教わりました。

 「人間は、そうした『メビウスの帯』をいくつも持っていて、ある部分は男性的で、別の部分は女性的という面を持っています。」

 「この世に同じ人間はいません。」

 「肉体は男で、心は女などと単純に言い切ることが出来ないのが人間です。」

 「性同一性障害は病気ではなく、人間の一形態です。」

 「治療するとしたら、少数派を排除しようとする社会の方です。」

 「人間は未知のものを恐れて排除しようとしますが、受け入れられたいという人たちの片思いはこれからも続くでしょう。」等々。

 こうした言葉が忘れられません。

 確かに、社会では、男はこうで、女はこうという決め事に満ちています。
 だからこそ、テレビに出てくる「オネエ」キャラを演じている人たちも、女はこうであるという世間のイメージをそのままに演じていますが、中身と外見は違うはずで、あれが彼らの本質とは思えません。

 彼らがありのままの姿を見せられるような社会にならない限り、我々自身が住みやすい社会にならないのだと思います。


 私はこれまで、性同一性障害に関して、人より理解しているとばかり思っていましたが、全く理解しておらず、そうした人たちがカミングアウトできない社会、すれば更に苦しい状況に追い込まれることが必至な社会、そんな無理解で偏見に満ちた社会の一員であったことを思い知らされた作品でした。

 気づかぬうちに、「性的少数者」の皆さんを侮辱するような発言をしてしまっていたことを改めてお詫び申し上げます。

 この場合の、「性的少数者」というのは、
 @先天的に肉体的な性が不明瞭な人(「インターセックス/intersex」) 、
 A肉体の性(「セックス/sex」) と心の性(「ジェンダー/gender」 )が異なる性同一性障害の人(「トランスジェンダー/transgender→TG」)、
 B性的な指向が同性や両性に向かう人(前者が「ホモセクシュアル/homosexual」、後者が「バイセクシュアル/bisexual」)、
などを指します。


 『片思い』を読んで、知らないということは、それだけで罪なのかもしれないと思うようになりました。
 社会の常識の中にある嘘について、我々は考え、我々の中にあるいわれもない迷信や偏見を取り去る必要があると思います。

 そうしたことをこれからも訴えていきたいと思っていますので、よろしくお願いします。(04.09/21)


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