"My Pure Lady" Junko Sakurada
桜田淳子資料館

管理人室

 

管理人の迷酊放談

〜よい酔い余韻の良い好い宵〜

No.0009 「同性愛は、病気である」は本当か 

 

 人間が人間を愛する場合、その性欲や恋愛の対象となる相手の方向、「性的指向/sexual orientation」によって、
@異性愛(ヘテロセクシュアル)、
A同性愛(ホモセクシュアル)、
B両性愛(バイセクシュアル)、
と分けられるようです。

 その歴史にそって、話を進めていくために、あえて、「同性愛」という言葉を用いることを許して頂きたいと思います。
 一般社会は、異性愛を当然のこととしていますが、それは欧米社会におけるキリスト教の影響から来ているものと思われます。
 
 異性を愛することが当然、結婚することが当然、子供がいる家庭が当然という社会の常識にも、キリスト教の考え方が影響していると思われます。

 そうしたことを全く当然のこととして鵜呑みにして、それが本当に正しいのかを考えたこともない人々は、そうではない人々に対して、無神経に、
 「恋人はいないのですか」
 「結婚はしないのですか」
 「子供は作らないのですか」
と質問し、そのことにどれだけその人が傷ついているのか、気づこうともしません。

 それらの常識も、明治時代に入ってきたキリスト教的な思想から影響を受けているなどと、彼らは考えもしたことがないと思います。
 江戸時代以前の性生活は大らかでしたし、織田信長や上杉謙信や武田信玄が同性愛を経験していることは有名な話です。

 そこで、キリスト教の「同性愛はいけない」とする教えがどこからきたのかについて、考えて見たいと思います。



 性的な祝福を結婚関係に限定し、一夫一妻制をよしとするキリスト教を土台とする欧米社会は、子供を生むことを考えない自由な恋愛と同性愛について否定しました。

 現在のイスラエルに生まれた三兄弟とも言うべき宗教、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の共通点は、唯一神教であることと、キリスト教でいうところの旧約聖書部分を共通の経典としているところですが、その中では、確かに同性愛は禁じられています。

 その根源を遡れば、今から数千年前、牧畜をしていたユダヤの民が、神の啓示でやってきたカナンの土地に定住したときに、同性愛が増えれば、子どもが生まれなくなるので、神の言葉として、これを禁じたのでは、という見方が、最近の研究結果、出てきました。

 新しい環境にやってきて、他の民族の土地を力づくで奪うことで、勢力を伸ばしてきた彼らにとって、子孫繁栄をはかることは、労働力や戦力を確保し、自分達一族の勢力を拡大していくために欠かすことの出来ない、極めて重大な仕事であり、同性愛は許せないことだったことは間違いありません。
 そうした「生めよ増やせよ」という旧約聖書における神の言葉と思想が、明治時代に入ってきて、やがて、「富国強兵」を進める戦前の日本にも影響を及ぼし、今も社会通念として、亡霊のごとく、しぶとく生き続けているということだと思います。

 旧約聖書には、「生の豚肉を食べてはいけない」という戒めがありますが、それは衛生面からいって、今日的に見ても、極めて正しい教えです。
 そうした合理的な知恵が、数千年も前に、神の言葉として伝えられている書物、それが聖書だと最近理解されてきています。
 
 しかし、ユダヤ民族のための宗教・ユダヤ教や、アラブ民族のための宗教・イスラム教においては、今も生きているかもしれない同性愛を禁ずる教えですが、民族宗教から脱却し世界宗教となったキリスト教の場合においては事情が違います。
 一族や民族の繁栄のために禁じられた同性愛だとするならば、人類すべてを対象とする世界宗教となったキリスト教においては、意味がなさなくなったと見る人がいることもまた事実です。

 数千年前の昔に回帰しようという原理主義者ならともかく、現代文明に生きる人間に、聖書の言葉を文字通りに実行することなど不可能ですし、そのことにどれだけ意味があるのか、これまた意見が分かれるところでしょう。

 我々が世間の常識を鵜呑みに出来ないように、神の言葉としての聖書も、イエス・キリストとの福音という光を通さずに鵜呑みしてしまう読み方も極めて危険な読み方ですねと言われれば、キリスト教側は黙るしかない筈です。

 あくまでも本人の意思として、しない自由はあるというのがクリスチャンの誇りであり、強制されていやいやするという奴隷のような生き方をすることは、クリスチャンにとって、あってはならない誤った生き方ということは言えると思います。
 となるとユダヤ教社会、イスラム教社会ではない人々にとって、ましてやキリスト教社会ですらない日本にとって、同性愛がいけないとする根拠はないに等しいということになります。


 現代において同性愛は、人間の持つ「性的指向」の単なる一形態にすぎないという見方があり、確かに、人間の歴史を見た場合、人間は愛情を向ける対象が異性に限られるというような単純な生き物でないことは確かです。
 だからこそ為政者やキリスト教の指導者たちは、神の言葉を借りて、一夫一婦制を維持しなければならなかったし、同性愛を否定しなければならなかったとも言えます。
 
 すべての人の中に、恋愛の対象が同性である「同性指向」と、異性を愛する「異性指向」が絶えず一定の割合で存在しているようです。
 その中で、「同性指向」の割合が多い人のことを、同性愛者と呼ぷのかもしれませんが、白か黒か、0か100かといいように簡単に分類できるようなものではなく、グレーゾーンも含めて、極めて微妙なグラデュエーションの中に我々はいるというふうに理解した方がいいように思います。

 従って、同性愛を罪としたのは、キリスト教の教会やそれを土台にした欧米の社会の都合であり、昔とは違う価値観を持ち、ユダヤ教・イスラム教社会ではない現代社会に住む人間が、それを守る必要がどこにあるのか、合理的な理由を探す方が難しいように思われます。

 19世紀当時は生殖に結びつかない性は罪とされ、同性愛は病気として治療の対象でしたが、現代においては、病院に行っても、同性愛は病気として扱われることはないということを我々は知っておく必要があります。

 アメリカでは、1970年代に世界の精神科医が診断の拠り所とするDSM−V(米国精神医学会刊行)から「同性愛」という病名が廃止され、1987年に出されたDSM−V−Rという版からは、同性愛に関する事項は一切削除されました。
 1993年、WHOは「国際疾病分類」「同性愛はいかなる意味でも治療の対象とはならない」と宣言し、日本でも、94年に厚生省がこれを基準として採用し、95年に日本精神神経医学会がこれを尊重する見解を発表しています。

 「ホモセクシュアルは病気ではない」のです。


 にも関わらず、社会において、家庭において、異性愛を当然とする価値観が跋扈する社会においては、少数派である同性愛や両性愛が、さも倒錯的で、病気のごとく扱われてしまうことに対して、我々はもっと疑問を持つべきだと思います。

 そうして追い詰められた性的少数派の人々が、本当に病院で診察を受けたり、自殺するほど追い詰められているということに我々はもっと敏感になっていいと思います。

 たとえ自分の考え方や生き方とは違っていたとしても、それを排除していいということにはならないのです。(2004.09/24)
 


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